加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

展示風景1

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

子どもの頃、フォークの背にライスを乗せて食べるのだと洋食マナーを教えられた時、どうして最も乗せにくい部分を使うのか不思議でした。「とにかくそれがマナーだ」と教えられたのを覚えています。真夏にスーツを着て名刺を交換するビジネスマンの悲哀を、作法という観点で眺めた作品です。

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

イングランドの大地は、いたる所が牧草化され、木々が鬱蒼と生えている光景を見る事がありません。イングランドの地形を立体模型にして切り取った時、こんな場所があってもおかしくないと考えました。モチーフとして引用したのは、フィレンツェにあるミケランジェロの天使の彫刻です。

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

読書に不可欠な「しおり」をありえない物体で作ろうとして着想したのが、この作品です。この「ありえなさ」とは、すなわち常識に対する揺さぶりであり、感性を日常から解放させる構造を持っています。常識を疑う事で何かが見えてくる事、それはアートの重要な要素のひとつだと思っています。

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

キーボードの「Return(Enter)」キーの形状は、他のキーとは異なり逆L型をしています。それを点対称に配置することで、リターン(回帰)が無限ループになってしまうため、永遠に終わらないテニスのラリーのように、無意味な会話を繰り返し続ける人々の姿を示しているとも言えそうです。

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

大理石の薔薇の制作キットです。大理石の原石と、制作説明書が入っているだけで、道具もなにも入っていません。説明書を見ると「箱の写真をよく見て、ていねいに作りましょう」とだけしか書かれてありません。もし本当にこれで写真の様な薔薇を作れたら、その人はすでに優秀な彫刻家です。

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

直線を書いたり寸法を測る道具である定規を、ねじ曲げたのがこの作品です。このような機能剥奪があると、それまでの価値観では無意味なものでしかありません。しかし価値観を変える事でモノの意味が変わる様に、この定規にも新しい価値が発生し、その価値を考える事こそ、芸術なのです。

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

千羽鶴を折る際に込められた「願い」は、開かれてしまうと、どこに行ってしまうのか?という着想から、1,000羽の折鶴を一枚一枚開いて積み上げてみました。解体する事を前提に制作するというのは、根本矛盾のために強烈な苦痛を強いられ、まるで苦行の様でしたが、気付くと解脱していました。

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

カッププリンのつまみを折ってプリンが出てくる時の爽快感は格別なものがあります。しかし稀につまみを折っても出てこない時があり、期待が裏切られた感じが残ります。この作品はその逆で、つまみを折る前にプリンが出てしまう、先に結果が与えられ宙づりにされた空虚感を表わしています。

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

白磁は、まるでヨーグルトや杏仁豆腐を連想させる艶をしています。ヨーグルトや杏仁豆腐にスプーンを入れるように、ボウルにスプーンを差し込んだように作ったのがこの作品です。考えてみるとこれは、スプーンのついた皿なのか、皿のついたスプーンなのか、議論の分かれるところでしょう。

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展示風景2

加藤マンヤ展覧会[as far as possible] -Manya Kato-

地下展示風景