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平田五郎フィールドワーク写真展 「遠くまで歩く」

夏の朝の陽ざしはまぶしく、空は白く見えた。少しの間、自分がどこにいるのかわからず、仰向けになって見上げているその空の中に吸い込まれて、自分が点になって消えていくように思われて怖かった。
はっきり目が覚めてくると、広い砂浜に寝ていることがわかり、また一日炎天下を歩き、夕方には眠る場所の心配をすることになるのだと思い不安になった。大学一年の夏に行った徒歩旅行での事。
数時間歩いて日陰に入ると、そのまま座り込んで何も考えず、ずっとぼんやりしていられるほどに、その頃の自分にはつらい旅行だった。道すがら側溝の底で飛べなくなった蝶が、点々と陽ざしの中で動いているのを見た。それは歩いていなければ見る事の出来ない光景だったが、そのまま自分の姿と重なった。テントも持たず野宿を繰り返した。駅前の公園、タクシーの営業所、砂浜、橋の下。
旅行が終わりに近づいたころ雨を避けて眠った、海に流れる小さな川に掛かる橋の下で、海水浴客達が夜半に花火を始めたのに遭遇してしまった。彼らはその橋の上にいて、すぐ下に私がいることを知らなかった。同じ場所にいながら、全く別の世界にいること。

フィールドワークと称して行ってきた一連の行為のために選んだ場所は、風光明媚と言えるような所ではなく、人跡未踏の地でもない。個人的な理由や興味から行く場所を決めてきたし、だからその場所や作られた彫刻に大きな意味があるわけではない。大切なのはどこかに辿り着こうとして、たった一人で歩く事だった。
遠い、という感覚は心理的なもので、行き着いたその場所を自分の場所として感じ取るためにそこに佇み、何かを作り、より深く自分自身の心の奥に踏み込むことを求めて、より遠くまで行くために、歩く、という行為が必要だった。
見たことのない場所に向かって、遠くまで歩く。後年、蝋でできた白くて深い穴の底から空を見上げた時、あるいは地の果てのような場所にある巨大な岬の手前で、初めて遭難の危険を感じた時、あの朝、最初の旅行で見た空を思いだした。あの時、自分は同じくらい遠い場所まで歩いて行ったのだと。

自己、というのは玉のように閉じた固まりではなくて、光の中に枝葉を伸ばす、陽光の中に立つ樹木のようなものではないのか。そして枝葉の間にある光、木漏れ日のような空気の中にこそ、その実態があるのではないのか。
行きたいところが、特別な場所である必要はなかった。そこを歩き、佇むことによってある一時、大切な場所にしてきたのだし、枝と枝の間、形を結ばない自己というものとその場所とを、歩くことを通じて重ねようとしてきた。
そして、これまでに行ったどのような場所にもそこで暮らしている人がいて、僅かな時間行き合ってきた。見てきた光景と行き会ってきた人々に、感謝している。

平田五郎/フィールドワーク記録集[遠くまで歩く]より抜粋

 

各位
皆様におきまして、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
平素よりマサヨシ・スズキ・ギャラリーに格別なるご高配を賜り、
厚くお礼申し上げます。
さて、この度マサヨシ・スズキ・ギャラリーでは、
平田五郎/フィールドワーク写真展を開催いたします。
今回の展覧会は東京芸術大学在学中より行ってきたフィールド
ワークの仕事を1991年の北海道豊頃町 湧洞湖「ひみつの通路」と
1993年の沖縄県 八重山郡 西表島 中良川 クイラ川流域
「緑の舟のプロジェクト」を中心に写真と資料にてご紹介いたします。
あまり発表する事のないフィールドワークの仕事を
是非この機会に、ご高覧頂きますようお願い申し上げます。
また5月19日(土)には、作家を招待してのオープニングパーティを
ささやかながら開催いたします。
どなた様でも参加していただけますので是非お越し下さいませ。   

2012年5月 鈴木正義