吉本作次プロデュース

「われは人なり いまだ人間にあらず」シリーズ夏炉冬扇

[出品作家]
上野英里/大久保奈央/小口志帆/牧千尋
下家杏樹/西山弘洋/杉浦光/前川宗睦
2019年6月8日(土)〜6月30日(日)
開廊時間/ 12:00 - 19:00[毎週 火・水曜日休廊]

サブタイトルの夏炉冬扇は、ぼくが名芸生企画をするときに付けた、シリーズ5回目になるタトルですが、もちろん有名な、松尾芭蕉の「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆に逆ひて、用ゐるところなし。」からきています。
最近流行の自虐ネタのようにも思えるのですが、実際に、絵画制作に40年近く携わってきた、この国、日本のなかで、“趣味”“道楽”としてでなく画家でいようとすることは、"夏炉冬扇"を自覚することでしか耐えられないと思うのです。しかし同時に、そこに終わりなき”道”としての可能性が、浮かび上がってくるとも思うのです。本タイトルの「われは人なり、いまだ人間にあらず」は、妖怪人間ベムのセリフみたいですが、そうではなくて(そりゃそうだ)
先日、中国語では「人間」と書くと、文字通り”人の間”つまり、”世間”と言う意味になると、知ったとき、はたと、最近多くの若者が、なぜ、この豊かで、安全で、美しい国に生まれながら、精神を病んだり、自傷したり、人を呪ったり、するのだろうか?という問いの答えに結びついたことから来ています。本来、我々は、動物として生まれ、脳の進化と経験によって、動物ならざる部分(意志、悩み、共感)などを獲得していくのだけど、最近の環境(とくに親と学校)は、はなから、子供に世間への順応を求め、いわば、段階を無視して、いきなり「人間」にされた子供は、歪んだ順序で成長し、恐らくは、思春期にそのツケが、一気に吹き出す、ということでしょうか。本当なら、そういうときの対処方法として、美術制作は、多くの人が感じるように、有効であるはずなのだけど、美大入試で、基礎という名の拷問に耐えさせられ,感性を鈍らせられ、さらに、最近の社会は、西洋式であることがもとめられるため、メンヘラ(心を病んでいる)学生に、人前でのプレゼンを強要したり、言語化できないものを説明させたりする、結果、美術は救いではなくなる・・・
それでも!何割かの学生達は、「人間」でいるより一個の「人」であろうと、独立峰を形成してゆく。名古屋芸大の洋画学生の魅力は、登山のように、作品に向かって修験するところだと思う、とにかく、キョロキョロしないのだ(出来ない説もある)今回、キャラの立った、独立峰を八峰お目にかけたいと思います。年令、経験の差からくる質の高低もありますが、「山高きを持って尊しとせず」とも申しますので、気に入るということは、完成度とは別のこと。楽しんでいただければ、作家達の本望だと思います。

                           (吉本作次)